慶長三陸地震
1611年12月2日(慶長16年10月28日)、巳刻過ぎ(10 -11時頃)大地震、昼八ツ時(午後2時頃)に大津波(現地時間)と記録されている。『武藤六上衛門所蔵古大書』には「大地震三度仕」とあり、3度大きく揺れたことになる。当時、日本を探検中のビスカイノらも、奥州沿岸の測量中に地震と津波に遭遇し、その記録を残している[1]。
この地震において、現在の三陸海岸一帯は強震に見舞われたが、太平洋側沿岸における震度は4 - 5程度と推定され、地震による被害はほとんどなく、津波による被害が大きかったことから津波地震と推定されている[2][3]。この地震による津波被害は「慶長三陸地震津波」あるいは「慶長三陸津波」とも呼ばれている。
北海道大学特任教授の平川一臣は、17世紀初頭の津波堆積物が色丹島や道東、道南(北海道森町)、三陸北部、三陸南部と約1500kmの範囲に及ぶことから、慶長三陸地震は、従来の震源推定地であった三陸沖北部よりも北の、北海道東沖から北方領土沖の千島海溝付近で最初に発生した地殻変動が周辺の震源域と連動して発展した巨大地震である可能性が高いと推定している[5]。さらに平川が専門誌「科学」(2012年1月26日発行)で発表した説によると、17世紀初頭のものと推定される北海道東部で発見された津波痕は15〜20mの津波が到達したものと考えられる上、同時期に大きな津波が2回発生した記録はないことなどから、慶長三陸地震は千島海溝沿いにおけるM9規模の地震の可能性が高いと推定している[6]。
津波は現在の三陸沿岸および北海道の太平洋沿岸に来襲し、仙台藩領内で死者1783人(『朝野旧聞裒藁』[注 3])(伊達領内で死者5,000人という『駿府記』の記録もある。[12])、南部藩・津軽藩の海岸でも「人馬死んだもの3000余」という記録が残されている(『駿府記』)。北海道でもアイヌを含め多数の死者が出たという(『福山秘府』『北海道史』)。
『駿府記』には伊達政宗に献上する初鱈を獲るため侍2人を遣わし、漁人らは潮色が異常であるとして難色を示したものの、「主命を請けて行かざるは君を誣するなり、止むべきにあらず」とて出漁した漁人らは津波に逢い漁人の生所なる山上の千貫松の傍に流れ着いたが、家は一軒残らず流失したとある[1]。この『駿府記』にある「松平陸奥守政宗献初鱈、就之政宗領所海涯人屋、波涛大漲来、悉流失、溺死者五千人、世曰津波云々」が、文献に現れる最古の「津波」という語句の記述とされる。
この時の津波に由来する伝承が、地名などに残されているところがいくつかある。宮城県の仙台市若林区に、海岸から約5.5キロ離れた場所に1702年に建立された「浪分神社」がある。この名称は、この周辺で津波が二手に分かれて引いていったことを示すと伝えられている[14]。同じく宮城県の七ヶ浜町の菖蒲田浜(しょうぶたはま)には、招又(まねきまた)という名称の高台がある。この地名は、避難した人たちが「こっちさ来い」と手招きしたことから付いたと伝えられている[15]。
今村明恒は、被害が北海道にも及ぶこと、三陸海岸に伝わる口碑などから、慶長三陸地震は貞観地震と並び、その津波の規模において最も激烈なるもので明治三陸地震を凌ぐものであるとしている[23]。津波遡上高の比較では田老村海浜(現・宮古市)において、慶長三陸津波20m、明治三陸津波14.5m、昭和三陸津波6mと推定している。また船越村小谷鳥(現・山田町)では波が同村大浦へ至る峠を越したことから25mに達したと推定され、ここでは明治三陸津波17.2m、昭和三陸津波12mであった。さらに織笠村(現・山田町)においては慶長三陸津波は海岸から2100mの距離まで浸水させ、対して明治三陸津波1100m、昭和三陸津波700mであった[24]。
北海道西部の沙流川中流域の場所で「津波が押し寄せた」と証言した人の記録がアイヌ民族の伝説に残っている。都司嘉宣の分析によると、津波の遡上高は63mに達し、2か所で50mを超えたとみられる。これらは日本国内観測史上最大の東北地方太平洋沖地震での43.3mを超える。発生した年代は17世紀以降と推定され、慶長三陸地震による津波の可能性が高い[25]。